その実が熟すまで

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「話すことはたくさんあるよ。何週間もかかるがね」  

                         ――『終りなき戦い

 

 

実際書店で手に取ったのは2010年の暮だったように記憶しています。
当時はそれまで敬遠していた文学に手を出そうと、夏目漱石を読み始めていた時期で、その日も新潮文庫のコーナーにふらりと立ち寄って、並んでいる本を見るともなしに見ていました。特別何か買おうとは思っていなかったのですが、タイトルに魅かれて手に取った本がこの『杏っ子』でした。
著者の室生犀星という人を知っていたわけでも、知り合いに杏子なる人がいたわけでもないのですが、単に当時私が書いていた(実は今も)小説の主人公の名前が杏だったという、ただそれだけの縁で手に取ったんです。
初めは小説の参考になれればなあという気持ちでしかありませんでしたが、仕事(のようなもの)の休憩時間などに少しずつ読み進めて行くうちに、それは参考程度じゃ留まらないほどの衝撃を受ける事態に陥りました。


物語は平山平四郎という小説家の生涯を描いているのですが、途中娘の杏子(きょうこ)に話が移っても、また彼女が結婚して外から見守るだけの脇役になっても、一貫して平四郎の物語という軸はブレません。貧しさゆえに養子に出され、しかしもらわれた家庭では毎日虐待を受けて育った平四郎は、多くがトラウマを抱えたり、その惨劇を繰り返してしまう人がいる中で、自分の子供はもちろん妻にさえ、一度も手を上げたことはありませんでした。

夫に殴られて平四郎の元にやって来た杏子が、母を(つまりは妻)を殴ったことはないのかと訊くと、自分は母親に殴られてばかりいたから、人を殴ることはしたくないと答え、そして最後に、
「変なことをいうね」
と付け加えます。

一度決めたことはあくまで押し通し、人生で起こるさまざまなことは叩き壊すか積み上げるしかないという考えの平四郎にとって、自ら決めた事柄にまったくの迷いがありません。


例えばこんなエピソード。
一生のうちピアノ一台買えるような男になって、大きな図体のその傍で昼寝をするという、かねてから願望を叶えるため、平四郎は突然ピアノを買うと言い出します。なんでもピアノが買えそうなくらいには稼いでいる気がする、と。
杏子がピアノを習うには適齢なことや、妻が音楽経験者なこともあり、話はとんとん拍子に進んで遂に買うに至ります。しかし杏子が大きくなるにつれ、鍵盤が鳴ることも少なくり、やがて杏子が結婚して家を出るようになると、埃を被るだけの代物になります。それでも、それぞれに思い出深いピアノは売られることも捨てられることもなく、平四郎の家で据え置かれ続けます。
そして杏子が生活苦で金に困った際には、平四郎はあっさりピアノを売ろうと言い出します。ピアノを売ってしまったら自分のものは本当に一つもなくなってしまうと嘆く娘の言葉に平四郎は、なにもなくても身体一つあればいい、そして身体を大事にするんだと言い切ります。
それは住んでいる家を建てる時も同じでした。
それまで集めに集めてきた沢山の書物をすべて売り払い、家を建てられるだけの資金の大半を拵えたのです。

積み上げては壊し、壊しては積み上げる。
その一貫した考えは、自分を取り巻く事柄にしか行動に移しませんでした。

それは稼ぎのない夫と暮らす杏子に対して、ただ黙って見守るという姿勢を貫き通すことからも窺えます。娘夫婦を別れさせることは平四郎にとって雑作もないことで、ただ一言別れろというだけでこと足りてしまいます。それだけの影響力を持ち、また一度決めたら押し通す性格ゆえに、結果は誰が考えても明らかです。ただそれをしないのは、父親であっても手を出しえない問題だと考えていたからでした。

それは女というのは損な生き物で、その損をどんなに小さくしようとしてもすでに遅く、大きい損を背負ったまま草臥れて引き上げるのが精々だろうという女性観が平四郎の中にあったからです。

今日では差別にもなりかねない発言ですが。
それはなにも杏子が生まれたのが関東大震災の時であり、大戦後に結婚したという時代性だけで片付けてしまえるものではなく、平四郎が育った家での、暴力を奮う母親の女としての有様をしっかりと見てきたから言える言葉なのです。
またそれに絶えつつも、何かと面倒を見てくれる姉の存在もいくらかあったことでしょう。本来ならば他所の子である自分を、本当の弟のように愛でてくれるのですから。そういった姿を見て、損という言葉で表現したと私は思います。

ただしここで断っておきたのは、平四郎は男を得だとは一度も言っていないということです。

むしろ男も女も、どちらも損な生き物だと言っていますし、
女は生涯損をして、男は一時の損をするだけの違いで、
夫婦なんてものは生涯の格闘みたいなもので、
男は急所をつかれようものなら二の句がつけない正直者ばかりだと、
更には男ってのは面白い生き物だから、笑って付き合えばいい、
一生懸命になるほどのものではないとまで言っています。

その言葉には損得でも優劣でも勝ち負けでも良し悪しでもない、だからといって平等でもない男と女の(平四郎から見た)人間像があり、だからこそ、たとえ父親であっても踏み入れられない、または踏み入ってはならない領域があるのだと判断したのです。

見守り続けるという行動に落ち着いたのはそういった理由からでした。


しかし、なにもしないわけではありません。
いよいよすべてのものを売りつくし、それでも飯を食うに困った娘夫婦に平四郎はそっと手を差し伸べます。
家に来い。
そしておれの飯を食って暮らしたらどうだ、と。
そうするより彼らを救う道がなかったと言っていますが、はたして救おうとしていたのは夫婦なのかそれとも杏子なのかは、判断の難しいところです。
事実この二世帯暮らしを契機に、夫の亮吉は圧倒的な力によっていつ潰れてしまうとも知れない身となり、それに抗う力は遂に爆発し、その結果離婚という形で終止符を打つことになるのですから。

圧倒的な力とは、言うまでもなく平四郎のことです。

売れない小説家であった亮吉は、これまで妻の後ろに小説家として大成した平四郎の姿を見ない日はなく、自分に向けられた妻の言葉はすべて、平四郎と比較された上で発言されたもののように聞えていました。
それがいよいよ当人の元で暮らすことになったのです。
離れに住むとは言え、米の一粒に至るまですべてに平四郎の陰がチラつくのですから、どんな気持ちだったかは想像するに難くありません。そんな亮吉が問題を起こしても、やはり平四郎は黙ったまま夫婦の問題に口は挟みません。
しかしそれが遂に自分に向かってきた時、ようやく行動に出ます。拳を握るまでもなく、それは一言告げるだけで充分でした。
出て行ってくれないか、と。

こうなるともう、話の軸ではなく、平四郎そのものがブレないと言えるでしょう。
一度決めたことは貫き、必要ならばそれまで築き上げてきたものを粉々に砕いてしまう、その心強さと潔さ。人にとってそれは優しさにも、誠実さにも映ります。その姿は東北の童話作家が手帳に書き連ねた詩の中の、理想的な人物の片鱗を窺わせると言っては過言でしょうか。

慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル

実際平四郎はよく笑っていました。
時に悲しく、時に楽しく。
そして優しく。

今回のテーマでは初め、4つの個書についてお話しする予定でした。
しかし、公私の忙しさで随筆時間があまり取れないことや、選んだ個書があまりにも大きすぎて、小さい私の器では処理しきれないことなどから、今回は杏っ子だけに絞り、つらつらと話をさせていただきました。
この作品は今年が始まって間もなく読了し、折にふれては思い巡らしていましたが、一年近く経った今でもまだ、どうやら感じたことや考えたことの半分も言葉に出来ていないようです。

参考までに、残りの3つの個書を文献リストに上げておきます。
いずれそれぞれに書く機会が訪れるのか、はたまたここに追加されるのか、もとより私の思考を言葉にするまで一体どれほど時間を要するのかもわかりませんが、4つの個書に共通する感想としてここでは簡単に、

「人間的厚みがまるで違う」

とだけ言わせて頂きます。


 

それではみなさま、良いお年を。

 

 

参考文献

終りなき戦い / ジョー・ホールドマン 著 風見潤 訳 / ハヤカワ文庫
新編 宮沢賢治詩集 / 宮沢賢治 著 / 新潮文庫
杏っ子 / 室生犀星 著 / 新潮文庫
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残り3つの個書です。
進々堂世界一周 追憶のカシュガル / 島田荘司 著 / 新潮社
風待ちの港で / 北方謙三 著 / 集英社文庫
ミドリさんとカラクリ屋敷 / 鈴木遥 著 / 集英社

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このページは、新々が2011年11月26日 15:29に書いたブログ記事です。

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